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幕末の英雄は坂本竜馬ではなく本当はジョン万次郎だった!?

2014.02.19

幕末の英雄は坂本竜馬ではなく本当はジョン万次郎だった!? はコメントを受け付けていません

激動の幕末期にジョン万次郎という男がいたのをあなたは知っていましたか?

聞いたことがあるけど、よくわからないという人も多いことでしょう。

彼こそ幕末最大の功労者ではないかと私は思っています。

幕末英雄ランキング第一位の坂本竜馬にはたいへん申し訳ないのですが、私にとってはジョン万次郎がダントツなんです。

「そんな重要人物なのか?聞いたことないぞ」と、あなたは思われることでしょう。

彼は政治家にも実業家にもならず、非業の死で亡くなったわけでもありません。

坂本竜馬、西郷隆盛や大久保利通たちほどには話題性もなく、インパクトに欠けるのかもしれません。

明治維新は、彼なしに語ることができないほど影響を受けています。

坂本竜馬を開国論者に転身させたのも彼なのですから…。

そこまですごいのか!?激動の時代をくぐりぬけてきたジョン万次郎の波瀾万丈な半生をじっくりと堪能してください。

あなたの歴史観が変わるかもしれません。

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極貧一家の次男、無学の少年だったある日…

本名、中濱万次郎。彼は1827年に土佐の田舎で半農半漁の貧しい家に生まれました。

父をはやく失ってしまったうえに母は病気がち、中濱家には寺子屋にいく余裕すらありませんでした。

兄弟はみな、読み書きができないまま育っていきます。

1841年のある日、漁の最中、漁師仲間4人とともに嵐で遭難してしまいます。そのとき14歳でした。

漁船の帆柱が折れて操舵不能となり、五日間の漂流をした5人は伊豆諸島の鳥島に漂着、無人島生活を送ることとなります。

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無人島で遠くを見ながら助けを待つ(イメージ)

偶然アメリカの捕鯨船に救助され九死に一生を得る

5人はアホウドリなどを食べながら無人島生活をしていましたが、遭難してから143日目、アメリカの捕鯨船に救助されました。

船の名前は「ジョン・ハウランド号」、船長のホイットフィールドがアホウドリの卵を乗組員に食べさせたくて島に近づいたという行動が彼らの発見につながりました。

しかし救助したものの、鎖国中の日本には寄ることができません。

5人はハワイに連れていかれました。漁師仲間はそこで降ろされましたが、万次郎だけはアメリカ本土までの航海を希望しました。

ホイットフィールドもよく働くこの利発な少年を可愛がっていたため、本土に連れていくことを決意、すっかりアメリカ人と打ち解けた彼は船の名にちなんで「ジョン」とミドルネームまで付けてもらいました。

ここから運命は大きく開けていきます。

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当時のアメリカ捕鯨船(イメージ)

アメリカの学校を主席卒業するほどの神童だった!

本土に帰港するとホイットフィールドは養子としてこの日本人の少年を学校に通わせました。

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日本語の読み書きすらできなかった土佐の少年は、アメリカのバートレット校で英語、高等数学、測量、航海術、造船を学び、見事主席で卒業するという快挙を成し遂げてしまいました。

運命とは必然なのでしょうか?持っていた底知れぬ才能は何かに導かれるかのごとく、どんどんと引き出されていきました。

漂流して9年後の1850年、23歳に成長した彼は、ゴールドラッシュにわくアメリカで採掘事業に携わり、金の採掘で稼いだ600ドルを握りしめ帰国を決意します。

船で太平洋を渡り、かつての漁師仲間とハワイで合流、そこで購入した「アドベンチャー号」でかつて漂流した仲間5人と祖国の日本を目指しました。

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ゴールドラッシュに参加!アメリカンドリームを初めてつかんだ日本人!?

鎖国中の日本にとって、漂流記は刺激が強過ぎた!?

琉球(沖縄)に漂着した「アドベンチャー号」と彼らは、薩摩藩の取り調べを受けました。

当時の藩主島津成彬は、万次郎の持っている豊富な西洋の知識に興味津々、船大工らを呼んで彼の話をもとに新しく建造させたほどでした。

そのあとようやく故郷の土佐に帰りつくと、こんどは絵師の河田小龍から尋問を受けます。

河田も薩摩藩と同様、それまで聞いたことのない西洋事情に引き込まれ、寝食を共にしつつ、このときの話を「漂巽紀略」という書物にまとめあげました。

この河田の書物は、土佐藩主の山内容堂公をはじめとする幕末重要人物の目に触れていきます。

よほど衝撃だったのか、この本によって初めて西洋文化に触れた尊王志士そして大名は「尊王攘夷主義」を「尊王開国主義」に転換させていきました。

坂本竜馬もこの本に触れて開花していったのです。まさに鎖国中の日本が目覚め始めるほど刺激の強い内容だったのでしょう

裏方に徹したがゆえにあまり語られてこなかった経歴

万次郎は政治家でも尊王志士でもなく、明治の実業家でもありません。

開国、倒幕を主導した人間ではないため、ロマンをともなうような小説素材にはなりにくかったのかもしれません。

賢君といわわれた大名藩主、幕末の志士達や幕府側の老中にも影響を与え、開国主義へ方向転換させました。

その結果、徳川幕府老中首座(今でいう総理大臣)の阿部正弘は「日米和親条約」を結び鎖国に終止符をうちます。

そのほか、英語の翻訳・通訳、造船技術の知識を広めるべく日本各地を飛び回ります。

通商条約のための渡米の際には、咸臨丸の艦長である勝海舟の代わりに操舵し、実質の艦長を務めたりもしました。まさに頼れる国際人でした。

幕末期はおもに幕府側で働いたこともあり、明治政府が樹立したあとは新政府に仕えることはありませんでした。

開西学校(現東京大学)の英語教授に就任し、教育者として生涯を捧げ静かに余生を過ごしていきます。

最大の功績!植民地化されず明治を迎えることができたこと

ペリーが横浜に登場したとき、幕末の志士たちは「尊王攘夷論」を掲げ、外人を追っ払うことしか頭の中にありませんでした。

「よそ者を入れるな!乗っ取られるぞ!」という気概だけでの「攘夷論」でした。作戦もなにもありません。

それこそ、欧米列強からかんたんに武力鎮圧されて植民地化…なんてことも十分にあり得たわけです。

外人というだけで「攘夷!」と刀を振り回し、尊王ということだけで「天誅!」と幕府要人を斬りまくる。

そんな無法地帯に治安部隊も組織されますが、気の荒い連中ばかりで混沌とした情勢はさらに悪化…。

そんななか、帰国後の万次郎の知識と見聞によって、国民は目覚め、上手にアメリカやイギリスの後ろ盾を得ながら、倒幕新政府樹立が実現したわけです。

万次郎なくしていまの私たちはないということがなんとなくおわかりいただけたでしょうか。

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マーギー・ブロイス著「ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂」 ジョン万次郎のアメリカ時代を中心に描いた物語

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