キラキラネームは700年前からあった!~ 吉田兼好が徒然草で苦言
キラキラネーム(DQNネーム)などと呼ばれる珍しい名前については、「読めない」「奇妙だ」などと批判の声がある一方で、「それぞれの思い入れがある」「命名権は親の権利だ」などの擁護論もあるようです。
最近になって盛んに議論されていますが、じつは700年も前に兼好法師(吉田兼好)が「徒然草」の中で、「近ごろの名づけ方」について苦言をしめしています。現代的な問題のようで、とても古くからあるテーマなのです。
お寺や物の名前を付けるときの小細工に不満あり! by 兼好法師
徒然草の第116段に、このように書かれています。
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「寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり」
意味は、
「お寺の名前や、その他のすべての物に名前を付けるときに、昔の人は、少しもひねって考えないで、ただありのままに、わかりやすく付けたものだ」
です。
さらに、以下とつづきます。
「比の頃は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞こゆる、いとむつかし」
意味は、
「近ごろは、いろいろと考えて、知識・才覚をみせびらかそうとしているように思われるのは、とてもわずらわしくて嫌味だ」
カッコつけて凝(こ)った名前を付けるのが気に入らない、と物の命名についての流行を批判しています。
最後に人の名前についても、言及しています!
そして、この段の最後にこう記しています。
「人の名も、目なれぬ文字を付かんとする、益なき事なり。何事も、めづらしき事を求め、異説を好むは、浅才(せんざい)の人の必ずある事なりとぞ」
意味は、「人の名前においても、見なれない珍しい漢字を付けるのがはやっているが、まったくつまらないことだ。どんなことも、珍しさを求め、一般的ではないものを好むのは、薄っぺらな教養しかない人が必ずやることだ」
何ごともシンプルであれというのが兼好の持論でしたので、名前についてもさらっと付けることこそ良しとしたのです。
いまから700年近くも前に、凝(こ)った名前をつける流行があったということは、もしかすると、こうしたことは、歴史上では何度も繰り返されてきたのかも知れません。
他の人とは違うものにしたいとか、目立つものにしたいという欲求は、いつの世にもあるのでしょう。
「目なれぬ文字」はどんな文字?
兼好のいうところの「目なれぬ文字」とはどんな名前を指すのでしょうか? 徒然草が書かれた14世紀前後の名前を調べてみました。
まず人名については、鎌倉幕府の将軍の名は、
8代・久明 (ひさあきら:1289年生)、9代・守邦 (もりくに:1308年生)
執権の北条家は、
貞時(さだとき:1272年生)、師時(もろとき:1275年生)、煕時(ひろと:1279年生)、基時(もととき:1286年生)、高時(たかとき:1304年生)
室町幕府の将軍は、
初代・尊氏(たかうじ:1305年生)、2代・義詮(よしあきら:1330年生)
どれが「目なれぬ文字」なのか、判断がつきません。現代的な感覚からすれば、どれも古臭い名前です。
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寺の名前も拾ってみますと、
建長興国禅寺(建長寺 けんちょうじ:1253年)、瑞鹿山円覚興聖禅寺(円覚寺 えんがくじ:1282年)、寿福金剛禅寺(寿福寺 じゅふくじ:1200年)、東慶総持禅寺(東慶寺 とうけいじ:1285年)。
これはたしかに読みづらく難しいようにも思えますが、漢字そのものは難しい字というわけでもなく、やはり判断がつきかねます。その時代の感覚がわからないとなんともいえないのでしょう。
徒然草は、だれからも注目されなかった?
「徒然草」は、兼好法師が隠遁(いんとん)後に書いた随筆(エッセー)です。清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」とともに、日本三大随筆のひとつとして高く評価されています。
諸説あるものの、書かれたのは1330年から1331年にかけてのこととされ、以下の序文は、とくに有名です。
「つれづれなるままに、日ぐらし硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはことなく書きつくれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」
「暇だったから、思うまま適当に書いたんだよね~」と謙遜しながらも、内容には奥深いものがあります。見聞であったり、感想であったり、人の心得だったりと多岐にわたりますが、全体として人生論的に書かれています。
現代ではとても有名な書ですが、兼好が書いた当時にはまったく注目されなかったそうです。歴史に登場するのは100年後の室町時代中期になってからのこと。室町初期までの文献には一切登場せず、兼好法師が書いたという証拠はありません。
謎の書物といえるかも知れません。
「吉田兼好」は本名ではないので、教科書には載せられていない!?
吉田兼好は鎌倉時代の役人で歌人だった人です。1283年頃に生まれ1352年頃に亡くなったとされています。「吉田兼好」(よしだけんこう)というのは本当の名前ではなく、「卜部兼好」(うらべ かねよし)というのが本名です。
300年以上後の江戸時代に「吉田」と呼ばれるようになったそうですので、兼好は自分が「吉田」に変えられていると知ったらさぞや驚くことでしょう。
「卜部家」が後に、「吉田」と「平野」に分かれ、兼好は「吉田」系統の血筋だったため「吉田」とされましたが、兼好の時代には「吉田」はなかったのです。
現在は中学の国語の教科書には「吉田」は使われず、「兼好法師」(けんこうほうし)と記載されています。役人を引退後に出家したため「法師」と呼ばれます。
命名について苦言を呈した人の名前が、後世にかってに「改名」されていたというのも奇妙な感じがしますね。
by 水の
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