毛利元就の「天下を望まず」の真意とは?~わざと天下を捨てた!
毛利元就の有名な言葉に、「毛利家はこの上、天下を望まず」という言葉があります。
これは天下を諦めたのではなく「わざと捨てた」のですね。その理由は、
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①当時の毛利領(中国地方)は、世界有数の豊かな土地だった
→石見銀山など、世界を代表する鉱山があった。
なので「不毛な土地」をわざわざ取りに行く必要がなかった。
②日本の関東や東北より、アジアの方が距離的に近かった
→日本より海外に目が向いていた
③規模を拡大すると、連携が弱くなることを知っていた
→実際、信長も領土拡大中の一瞬の隙をつかれ、本能寺で殺された
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ということです。それぞれ詳しく解説しましょう。
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毛利領は、世界有数の豊かな土地だった
「黄金の国ジパング」という言葉は聞いたことがあります。
この言葉通り、最盛期の日本は、世界の銀の約3分の1を産出していたのです。
なので、本当は「黄金の国」ではなく「白銀の国」だったんですね。(笑)
*ちなみに、最盛期というのは戦国後期→江戸前期です。
■世界で知られていた石見銀山
上に書いた「世界の3分の1」の日本銀のうち、大部分は石見(いわみ)銀山から出たものでした。
当時の石見銀山がどれだけすごかったか、物語るデータがいくつかあります。
たとえば大航海時代はヨーロッパやアジアで作られた地図にも、日本が登場していました。
そして、その地図の石見銀山のあたりに「銀鉱山」「銀鉱山王国」などと書かれていたのです。
また、アジアでは「ソーマ銀」という単語がありました。
これは石見銀山がある「佐摩村(さまむら)」の地名から来たもので、このような独自の名前が銀につけられるくらい、石見銀山の銀は世界で知られていたのです。
(日本の銀山で、このように世界地図などに登場していたのは石見だけです)
*詳しくはこちら。→石見銀山世界遺産センター
さらに『鉄』も、日本の8割を生産
毛利領のすごいところは、さらに「鉄」まで独占していたことです。
出雲(島根県)には銀山だけでなく鉄山もたくさんありました。
「出雲の鉄」として知られたものですが、最盛期にはここだけで日本の鉄の7~8割を生産していたのです。
*データはこちら。→雲南市観光協会「たたら製鉄」
出雲の鉄は「たたら製鉄」という製法で作られていました。
足踏みをしながら鉄に空気を送る装置を使うものですが、『もののけ姫』にも登場したので、見覚えがある人もいるかも知れません。
これだけ鉄を独占しているので、毛利家が「鉄は売りません」と言ったら、他の戦国大名は戦争ができないんですね。
武力で毛利家を脅そうとしても、そもそも武器の材料となる鉄がないわけですから。
向こうは武器を作れないのに、こっちは作り放題。
となれば誰が相手でも勝つに決まっているんですね。
「そんな人がなぜ、天下を狙わなかったのか?」と不思議に思う人も多いでしょう。
その理由を続けて説明していきます。
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距離的にアジアが近かった(世界を見ていた)
世界地図を見ると一目瞭然ですが、中国地方は韓国や中国にとても近いです。
関東や東北など、日本の遠い地域よりも、むしろ海外の方が近いんですね。
昔からこういう場所で育ったので、元就の価値観に「天下統一」はあまりなかったのおです。
「半分外国人」の感覚だったんですね。
距離が近いだけではなく、元就は上に書いたように、世界的に知られている銀を持っています。
なので、交易によって利益を上げることが簡単だったのです。
となると、戦乱で荒れ果てた日本の「どうでもいい土地」を取りに行くより、この豊かな中国地方を拠点に、世界と交易した方がいいんですね。
そのため、元就は「あえて」天下を捨てたのです。
(捨てたというより、もう眼中になかったと言っていいかも知れません)
規模が大きくなると、連携が弱くなることを知っていた
これは戦国時代に限らず、現代の企業でも言えることです。
・ダイエー…全国展開
・イトーヨーカドー…エリア集中型
という一騎打ちの勝負をした時、ヨーカドーが圧勝したのは知っている方も多いでしょう。
(すぐに決着がついたわけではなく、長期的な勝負でしたが)
ヨーカドーはエリア内で集中して店舗を出したため、在庫が不足した時もすぐに調整することができました。
また、社員さんを移動させるのもスムーズでした。
「今日の午後から、新宿店行って」ということもできますからね。
どんな事業でも必ず「最適の規模」があり、それを超えるのはマイナスでしかないのです。
準備さえ整っていれば、ダイエーの全国展開もうまく行ったかも知れませんが、まだ早すぎたわけです。
(しかもダイエーはさらにいろいろな事業を手がけていました)
■信長が「本能寺の変」で殺された理由
これもやはり、「領土を拡大しすぎて隙が生まれた」というものです。
本能寺の変が起きた時、信長がいた京都には、主要な武将が誰もいませんでした。
秀吉は中国地方、柴田勝家は北陸と、軒並み京都を離れていて、京都には「武将もいない、軍隊もいない」という「空白状態」が出来上がっていたのです。
明智光秀はそれに気づいて、本能寺を急襲し京都を占領したんですね。
もちろん、光秀さえ裏切らなければこれは別に問題なかったのです。
信長は彼を信用して空白地帯に置いていたのですが、領土拡大による空白さえなければ、光秀も裏切りようがなかったんですね。
(信長を殺しても、自分がすぐに殺されることがわかれば、やらないので)
このような「領土拡大で連携が弱くなること」を嫌って、元就はあえて「天下を望まず」の姿勢を貫いたわけです。
彼のこのようなポリシーを見ていると、私たちのビジネスでも人生でも「最適な規模は何か」「本当に望んでいるものは何か」ということを考えるヒントになるでしょう。
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